角倉一族の残した業績について。

 

■角倉一族
 近世京都屈指の豪商として有名な角倉了以とその息子素庵は、大堰川や高瀬川をはじめとする河川開鑿工事を行ったことでも知られる。物資の運搬をすべて人力・牛馬車に頼っていたこの時代、河川開鑿による船の運行は、物流の革新を意味した。事実、大堰川、高瀬川の開通後、物流の活性化は関西一円の経済を大きく発展させ、その後の産業・文化隆盛の契機となった。このように世の中に多大な影響を与えた大事業を、政治の表舞台にある武士ではなく、一民間人が自らの資産と技術によって為し遂げたことの意義は大きい。
 角倉一族は、代々医家を輩出し、また同時に家業として土倉を営み、嵯峨を中心に活躍して次第に経済力を増した。5代目了以は、秀吉の行った海外貿易に加わり、さらに江戸幕府による朱印船貿易では、素庵とともに安南国(現在のベトナム)との交易に乗り出し、巨万の富を得た。了以・素庵が河川開鑿という大事業を行うことができた背景には、こうした経済力があったと考えられているが、事業に見られる先見性、合理精神、計画遂行への強い意志などは、経済が疲弊し、生産技術の低迷する今日、改めて見直す必要がある。
 また、息子素庵は、当時の芸術家、知識人と深く交流し、自身も寛永の三筆と称されるほど芸術の才に秀でていた。光悦・宗達とともに、当時世界でも比類のない華麗な本(嵯峨本)を刊行するなど日本の文化に大きく貢献したが、その業績は、常に父了以の偉業の陰となり、歴史の闇に埋没していた感がある。今回の研究は、そうした陰の部分に光を当てようとするものである。
 さらに、角倉一族のひとり吉田光由は、「塵劫記」を著した数学者として著名であるが、彼が、叔父・了以の命を受けて土木工事を行ったことはあまり知られていない。水飢饉に苦しむ北嵯峨の農民たちを救うため、光由が高雄山中に建設した菖蒲谷隧道は、今なお水を送り続けているが、その工法や要した資金など工事の詳細は不明のままである。
 今回の研究で、菖蒲谷隧道の本格的な調査が初めて行われることになる。

 

■初代吉田徳春(1384-1468)

  • 近江より京都に移る。足利義満・義持に仕える。晩年、医術を嗜み、嵯峨に退隠。

 

■2代吉田宗臨(徳春の子か。忠兵衛)(-1541)

  • 足利義政に医術で仕える。(土倉を経営)

 

■3代吉田宗忠(宗臨の子。與次・光信)(-1565)

  • 角倉家の巨富の基礎をつくる。洛中帯座頭職となる(1544)。土倉経営。能など芸能も嗜む。

 

■4代吉田宗桂(宗忠の次男。日華子・桂蔵主・意庵)(-1572)

  • 策彦周良に従い、遣明船で2度中国に行く。医術は明でも評判になる。医方大成論を講述。

 

■5代了以(宗桂の子。)(1554-1614)

  • 朱印船貿易(秀吉時代は不明):安南・東京(ともに現在のベトナム)あての異国渡海朱印状を受領(1603,05,06,08,09,10)
  • 土木水利事業:大堰川(1606)、富士川(1607)、天龍川(1608実現せず)、賀茂川(淀・鳥羽。1610)、高瀬川(1611-1614)、琵琶湖疎水計画(1614.実現せず)(伊賀川)瑞泉寺建立(1611)

    宗恂(了以の弟。意安)(-1610) 医者
    侶庵(了以の弟) 学者

 

■6代素庵(了以の子。與一・玄之・子元)(1571-1632)

  • 朱印船貿易:安南・東京(ともに現在のベトナム)あての異国渡海朱印状を受領(1611,12,13(未遂),20,24,25,26(,32,33,34))の異国渡海朱印状を受領。
  • 土木水利事業:大堰川(1606)、富士川(1607、1614)、<賀茂川(淀・鳥羽。1610)、高瀬川(1611-1614)>、琵琶湖疎水計画(1614.実現せず)
  • 幕府役人的な活動:甲斐・伊豆・総州の鉱山巡視(1606-1609)。大坂の陣で家康軍の兵站部を担う→淀川転運使(過書船支配)・地税免除。木曽の巨材採運使(1615)、近江坂田郡の代官就(1615)
  • 学問:儒者藤原惺窩・林羅山との交流。嵯峨本(本阿弥光悦<版下・装丁>・観世大夫<謡本>・中院通勝<文芸書>との交流)

 

■7代玄紀(素庵の子。宗七) 京角倉

  • 高瀬川支配・淀川過書船支配・坂田郡代官を継承、二条屋敷居住(1619)。厳昭(玄紀の弟)
  • 大堰川舟運管理、木曽の巨材採運使、安南国回易大使司を継承、大堰川畔居住(1627)。