これまで精神病理学は、精神医学の中で、誇るべき役割を果たしてきました。

 それは、病苦にあるひとの体験を理解するということです。もちろん説明と了解の違いは重要ですが、構造を説明するということも理解の中に含めれば、精神病理学の作業はこの理解ということの中に包括されると言っても過言ではありません。精神病理学の営みは、精神医学の最も重要な活動である治療ということが問題になるときに、病に苦しむひとたちが病気を自ら理解するのを助け、医師が正しく病気を診断する基礎となり、そして、病の圧力や薬の効き目が精神に現れてくるのを患者と医師が感知するための、有効な言葉を提供してきました。精神病理学の多くの先人たちは、このような営みを、病むひとたちと共同で作り上げる言語空間の中で行ってきたのでした。

 この営みを前進させるにあたり、この京都大会を最後として、本学会の名称から「精神療法」が外れることになったことも、考えておかないわけには行きません。この営みが、治療というベクトルなしに可能であったはずはなく、精神病理学が直接に治療に差し出すことのできた力は、こうした言語空間が備える力であり、それはこれまでそうであったように、精神療法と呼ばれてもおかしくないものであったことは間違いないところです。

 それにもかかわらずこの言葉が退くとすれば、それは上に述べましたような患者と医師が共同で作り上げる言語空間が、必ずしもこの「精神療法」なる特定の言葉で覆いつくせなかったということ、つまりこの言葉の現今の用法が狭すぎたからかもしれません。そうだとすれば、残された「精神病理学」のほうは、これまでよりもいっそう広い視野の元に展開を図ってゆく務めを負うことにならざるを得ません。

 一つには、病みつつあるひとの体験構造をよく識り記述するということ自体が、理解という一つの関係的行為であり、そしてすでに治療行為の入り口であるということを改めて確認して、さらに先に進むということです。もう一つには、精神病理学が作り上げている言語空間を、思い切って大きく広げ、病む人々の生活と真に密着した精神病理学を構築することです。人々の生活の困窮の側面にまで、精神病理学の言語空間が一つの手当てのように延伸してゆくことはできないものでしょうか。

 精神病理学に与えられているこれらの二つの可能性が、どちらも発展してゆかねばならないことは言うまでもありません。ただ、現在の精神病理学には後者の試みがまだ十分とは言えず、ここでバランスをとる必要があるでしょう。そこで今回の学会のテーマを、「いのちとくらしをまもる精神病理学」とさせていただきました。精神病理学の言語空間と、一人一人の生活空間のつながりをいま一度じっくりみなさまと共に見つめてみたいと思います。加えて、「いのちとくらしを語りあうプロジェクト」を同時開催して、両空間の交通を容易かつ盛んにしようという目論見を立てました。

 もちろん、精神病理学の核となる言語空間が、現実の激しさに気圧されて萎縮してしまうことがあってはなりますまい。多くの学的試みが、病むということの体験構造に大胆に切り込んだ新鮮な成果を産出し、演題としてもたらされることと信じております。多くの会員のみなさまのご参加を、心よりお待ち申し上げます。
                          
第36回 日本精神病理・精神療法学会
大会長 新宮一成
京都大学大学院 人間・環境学研究科